文化財

本殿、若宮八幡神社本殿、仮殿、神楽殿、唐門、楼門、宝蔵が国指定重要文化財(建造物)
ほか、幣殿拝殿は市指定有形文化財(建造物)など、国・県・市と多くの指定文化財が所在します。

CULTURAL PROPERTY

市指定文化財

刀 (銘 八幡大菩薩 鈴木加賀守源貞則)

市指定 有形文化財
指 定 昭和43年12月27日(市指定第5号)
    昭和49年6月1日 重要刀剣指定
所在地 いわき市平字高月一 
所有者 飯野盛男
長さ 85.2cm 反り 3.2cm 元巾 3.4cm
   先巾 2.4cm 茎長さ 21.8cm

 初代鈴木貞則は、通称佐右衛門と称した。延宝2年(1674)に7人扶持米20俵で、磐城平藩主・内藤義概の御抱え鍛冶となり、平城下久保町に屋敷を賜わり鍛刀に従事していたが、延宝8年(1680)に没した。
 この刀は銘によると、延宝3年(1675)8月に飯野八幡宮へ奉納したもので、銘文(裏)によると磐城に来る前は京都の堀川に住んでいた。その作行は良く、資料的価値が高く、極めて貴重である。
 銘 表 八幡大菩薩鈴木加賀守貞則
   裏 洛陽堀川之住人奥州磐城於好間作之
     延宝三年(異体字・上が「禾」下が「千」)八月日
 この刀は鎬造り、庵棟、身巾ひろく長寸、反り深く中鋒のびごころとなる。鍛は小板目良くつみ地沸良くつく、刃文は広直刀調に浅くのたれ、所々に互の目をまじえ、匂い深く小沸出来で匂口明るい。帽子は直に小丸。生茎で先栗尻、やすり目大筋違、目釘穴1個。
いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」 より抜粋

絵馬 源為朝の図額

市指定 有形文化財
指 定 昭和52年5月4日(第42号)
所在地 いわき市平字八幡小路84
所有者 飯野八幡宮
高さ 84cm、横幅 71cm

 上部が屋根型の板額で、杉板を3枚合わせたものである。これに極彩色をもって、波打ち際に立つ為朝と、その弓の弦を張った2匹の鬼が描かれている。その銘に「奉掛御広前 所願成就処勝川春清画、干時安永六丁酉歳十二月吉辰 願主薄磯浜正井善平」と記され、安永六年(1777)十二月、薄磯浜(平薄磯)の正井善平の依頼により、勝川春清が描いたものであることがわかる。
 奈良地方では、子供の疱瘡よけに用いられる絵馬に為朝が登場する。弓を突き出した為朝と、その弓の弦を引っ張ってうなっている鬼の、いわゆる力競いの図である。為朝のような豪勇な人は、百鬼をも打ち払ってくれるという意味と思われる。
 絵師勝川春清は、浮世絵の一派勝川派をひらいた勝川春章の門弟で、作品の少ない絵師である。本絵馬は、師春章の画法を良くとらえ、誇張された表現は顔の隈とりを力強く描いており、四肢の表現などに芝居画としての勝川派の特色をあらわしている。浮世絵の絵馬として、当地方では珍しい存在である。
いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」 より抜粋

流鏑馬の用具類及び献膳の祭器

市指定 有形民俗文化財
指 定 昭和56年4月23日(第60号)
所在地 いわき市平字八幡小路84
所有者 飯野八幡宮
流鏑馬用具 十点、献膳祭器 二〇四点

 この用具と祭器は、飯野八幡宮の流鏑馬と献饌(県指定)の神事に用いられる。流鏑馬の笠には、平藩主内藤家の家紋が付けられており、内藤家の奉納品であることが明らかで、献膳祭器の黒漆大椀には寛政十一年(1799)の銘がある。これらは、民俗資料ばかりでなく、歴史的資料としても貴重であり、また工芸史上からも極めて優品である。
 一、 流鏑馬用具
  黒漆塗下り藤家紋付笠 一頭、「延寶六年内藤義概」銘
  黒漆塗陣笠      一頭、「万治三年内藤義概」銘
  金襴地陣羽織形上着  二着、
  鹿毛模様縢      二着、
  黒漆塗凾形箙     二領、「万治三年、延寶七年内藤義概」銘
  黒漆塗和鞍      二背、「寛文九年」銘あり
 二、 献膳祭器「寛政十一年神社盛長」の銘あり
  黒漆塗金覆輪丸膳   径39cm  3口
  黒漆塗金覆輪大椀   3口
  黒漆塗盃台      径14.5cm 3口
  黒漆塗高杯      径14.5cm 3口
 その他に御供器箱膳三と、杯、皿、椀、器台など一九二点ある。箱蓋には、「享保六年、飯野八幡宮御膳三拾枚」、「寛永二年、此筺虧損仍今新造之」の銘がある。
いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」 より抜粋

幣殿拝殿

市指定 有形文化財
指 定 昭和57年3月26日(第63号)
所在地 いわき市平字八幡小路84
所有者 飯野八幡宮

 弊殿は本殿と拝殿の中間にある幣帛を手向けるための社殿で、切妻屋根妻入造りである。拝殿は切妻屋根平入造りで、弊殿とT字型に一棟をなし、屋根はこけら葺きである。正面中央は小さな千鳥破風、そして向拝部分は一間の向唐破風である。弊殿の両側は神饌所と神職控室となり、拝殿三方の差掛け屋根は、廻緑保護のために付加された。柱はすべて面取り角柱で、床は中央通り一間と弊殿は板敷であるが、拝殿両脇は畳敷である。また、刎高欄が矩形廻緑に付設する。
 拝殿の特徴は、中央の間の鏡天井一面に龍の薄肉彫、欄間は正面弊殿に二頭の唐獅子と牡丹、両側面には鷹と狼の彫刻があって黒漆地に極彩色をほどこし、天井には宝永二年(1705)、両側面には元禄十六年(1703)の銘がある。弊殿の格天井には、宝輪などが極彩色で描いている。拝殿の柱間には、正面両側面とも二枚の縦桟の板戸を蔀風に上下に重ね、必要に応じて取り外して部屋を開放することができるが、東側面後方の下部はくぐり戸になって閉鎖のとき唯一の出入り口になる。現在は正面桁行が引違ガラス障子に改造されている。
 大きく目立つ向拝の大唐破風は、上部の頭貫と組物、正面大瓶束と両側面の蟇股、吹寄せの輪垂木などは後世の改造と思われるが、四本の柱や正面の頭貫、そして彫刻類は元のままである。即ち柱頭の唐獅子や篭彫の木鼻、頭貫上の龍や軒唐破風幕板の鳳凰の彫刻、唐破風の破風板や兎毛通し、千鳥破風の破風板と懸魚なども当初のものである。唐破風の形態や彫刻の内容に時代の反映がうかがわれる。
いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」 より抜粋

青銅製鈴杏葉

市指定 有形文化財
指 定 平成元年3月25日(第92号)
所在地 いわき市平字高月1
所有者 飯野盛男
長さ 4cm、幅 13cm、鈴径 4.7cm

 杏葉は装飾馬具の一種で、胸懸や尻繋などに垂下して使用される。鈴がついていることから鈴杏葉の名で呼ばれ、古墳時代の6世紀ごろ盛んに用いられた。全国的に類品はそう多くはなく、関東地方を中心に、近畿地方にかけて出土している。市内の中田装飾横穴(国指定)からは優品が出土している。
 この鈴杏葉は飯野八幡宮の宮司が明治初年ころ入手したものと伝えられ、大須賀いん(異体字・竹かんむりに均)軒の刊本『磐城史料』(明治45年)の中に「駅路鈴・飯野氏蔵」として掲載されている。しかし、市内の古墳等からの出土品かどうか不明である。
 青銅製の鋳造品で逆三角形の剣菱形の各角に一箇ずつ鈴がつく形態で、鈴の中に小礫の珠が入っていて、振るとにぶい音がする。鈴の表面には隆線による円圏内に珠文が鋳出されており、とくに左鈴の頂点にある珠文は大きく乳首状となる。右と下の鈴にも同様の珠文が施されたらしいが、鋳型のくずれにより不明瞭である。背面には文様はない。また、剣菱体の表面の偏平な円圏内は、二条の隆線で十字に四分割され、やはり全体に珠文が配されている。交差する二条の隆線中央部の珠文は大きめである。
 剣菱体の上部には、垂下するための皮帯を通す立聞と言われる方形の穴が開いている。
 珠文と隆線と円圏による文様構成は、この鈴杏葉の製作年代の特徴を表わし、中田横穴出土の鈴杏葉と同じ形式的な特徴から、六世紀の遺品と推定される。
いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」 より抜粋

飯野八幡宮 神 輿

市指定 有形文化財
指 定 平成6年3月25日(第122号)
所在地 いわき市平字八幡小路84
所有者 飯野八幡宮
高さ 2.15m 四面台座巾奥行及び巾 1.6m

 毎年9月15日には、飯野八幡宮古式大祭の神輿渡御が行われる。拝殿で御霊入れの儀式後、楼門を出て稲荷台(子鍬倉神社の境内)まで渡御する。
 この神輿は、飯野八幡宮の宮大工である平沢儀左衛門清貞が棟梁として、貞享三年(1686)に製作していることが棟札や木札に記されており、扁額には元禄三年(1690)の記銘が残されている。平沢儀左衛門清貞四十五歳の作品で、建物の木割を熟知した技術が各所に見られる。
 全体に漆彩色が施され、金剛垣と台輪鳥居が四周を囲み、一間四方の唐戸付八角身舎柱は塗金仕上となっている。軸部は四周に廻縁をめぐらし高欄付腰組斗きょうが付き、軒は中の間八枝、脇の間十三枝、地垂木六枝、論治垂木一枝、飛檐垂木四枝を化粧で組む。頭貫木鼻、台輪を組み、斗きょうは龍の総彫り尾垂木が組まれる。屋根は斗きょうに二軒化粧垂木が組まれ、輪宝金具付照り起屋根に、四注棟化粧に蕨手様の飾りが付き、棟中央の露盤に鳳凰が乗っている。台部分は二本の担ぎ棒を堅に貫いて轅として、台隅四周を金具で補強している。
 棟札の銘文は次のとおりである。
  奉寄進内藤能登守家臣・松賀伊織孝興・上田主計信尚
  貞享三年丙寅八月十五日
  神輿造立・神主従五位下飯野式部太輔盛次
  発起人・加藤宇衛門茂房・片山門右衛門重章
いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」 より抜粋

竹林七賢図硯屏

市指定 有形文化財
指 定 平成11年4月30日(第146号)
所在地 いわき市平字八幡小路84
所有者 飯野光世
総高 15.7cm、左右幅19.8cm

 衝立風の陶製の小品。桐鳳凰図碩屏(市指定)と規模・作風が相似し、同じ工房で製作された可能性が高い。
 腹と背に図像が描かれていて、双方いずれを主面とするかは決し難く、配置される和装仕様に応じて使い分けされたと思われる。一方の面には、俗塵を避け霞たなびく竹林境に集会する清談中の長衣をまとった隠士七人が描かれている。他面には、洲浜に浮かぶ巨厳から大振りの枝が伸びる竹葉と梅花が描かれ、袴様の台基の波形と調和し、いわゆる蓬莱図を構成する。
 図像の外縁には押木が表現され、隅は木瓜面をなす。左右の側脚は欄干状をなし、帳台を支え、台瓶牙子の様式である。外縁の平坦面には雲気状の唐草紋を入れている。
 鉄分を抜いたオフケの灰釉を全面にかけ、色調は青灰色に近いが、紺の着色で部分的に強調している。胎土は乳色の精錬された粘土を用い、焼成はよく堅緻である。
 江戸時代中期から後期に流行した文人趣味と相まって、書院飾りとして使われたものと考えられる。竹林七賢図は、近世に障屏を飾る題材に頻用され、蓬莱図も同じく、鏡背意匠によく取りあげられている。江戸文化への憧憬とその受容をよく物語る資料である。こうした文藝への指向は、美術工芸への関心を高め、日本各地に窯産業を促すこととなった。
 作者は不詳であるが、磐城焼として伝世し、当時の文人世相を示す作品として貴重である。なお磐城焼とは、磐城平藩主内藤家の御用窯で、延宝年間に内藤義概によって開窯された。
いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」 より抜粋

仙女蟠桃図硯屏

市指定 有形文化財
指 定 平成11年4月30日(第147号)
所在地 いわき市平字八幡小路84
所有者 飯野光世
総高 18cm、左右幅 21.5cm

 陶製の衝立風小品。脚台に衝立が乗る形状を示し、市指定の他の二つの碩屏とは違いが目立つ。
 外縁に据えられる押木らしい部分は見当たらないが、隅木瓜が施され、画面の縁はとくに低く削られ段差がつく。また、他の二口に共通する両面台瓶牙子は腹面にのみつき、背面にはない。さらに、この碩屏には袴腰に筆差しが造出され、主側を強調する。焼成もよく、堅く仕上がり、底面以外にかけられた灰釉は滑沢を呈す。
 主面の左右につく側欄状の台瓶牙子は上幅2.2cm、下幅5cm、正面厚2.5cm内外を測り、主面からみると急な階段状をなすが、側面に廻れば、その段は霊芝雲気紋の涌き立つ姿と考えられる。脚台下端の側面には、箱入れ用の紐掛けが施されている。主面前段に設けられた筆差しは横幅 13.3cm、高さ 6.9cm、厚み 2.2cmで、底面はなく、木瓜状に化粧取りされている。筆さしの四孔は直径約 1.5cm内外で横に並ぶ。
 主面の画は浮彫りが浅く判然としない。山の尾根で狩をするかのように、一人は矢筒を背負い短弓を曳く。一人は刀らしきものをかざして走り、一人は長槍を突き出して構え、小動物を追う場面かと思われるが画題は不明である。背面には老樹の巨株に腰を据える仙女(西王母)に蟠桃を捧げる侍女の姿が見える。不老長寿を願う情景である。
 浅い彫塑はいかにも地方造りらしく、稚拙感は拭えないが、資料の少ない磐城焼の作品として伝世された価値は高い。
いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」 より抜粋

絵馬 渡辺綱の図

市指定 有形文化財
指 定 平成11年4月30日(第150号)
所在地 いわき市平字八幡小路84
所有者 飯野八幡宮
高さ 148cm、横幅 224.2cm

 この絵馬は、庶民が奉納する小絵馬とは異なり、武運長久を願って神社仏閣に奉献する大絵馬の典型的作品であり、いわきの絵馬の中で最大の大きさを誇る、本格的な甲冑武者絵馬である。
 三枚矧ぎの欅板に金箔を施し、平安時代の武将渡辺綱が、羅城門の鬼を退治するという武勇譚に則り、馬上の渡辺綱に襲いかかる鬼の姿が描かれている。
 地の金色はよく残っているものの、人馬・鬼の彩色は剥落が激しく、わずかに武者の甲冑及び轡など、馬具の一部に彩色が残るだけだが、狩野派特有の図柄に基づく渡辺綱のダイナミックな画面構成は、剥落した画面を通して十分に伝わる。
 裏面には、剥落してほとんど色彩が失われているが、四隅を岩で囲まれた金地に、様式化された牡丹唐草文様が描かれている。
 また、絵馬の縁回りには、渡金された飾り金具が施され、内藤家の家紋である下がり藤が毛彫りされている。
 表面の墨書により、この絵馬は、正保四年(1647)九月、磐城平藩主・内藤忠興の子義概(風虎)の寄進によるものであり、作者は狩野信之(1619-91)であることがわかる。願主・筆者・奉納された年代が、明らかに読み取れるこの墨書の存在もまた貴重なものである。
いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」 より抜粋

高月館跡

市指定 史跡
指 定 平成9年5月13日(第151号)
所在地 いわき市平字高月1 ほか13筆
所有者 飯野貴枝子 ほか3名
面積 13,823.89㎡

 高月館跡は飯野平にあり、北に好間川を望む洪積段丘上(標高38~34m)にあり、周囲を崖に囲まれた高台にある。
 この高月館のある段丘面は、県立磐城高等学校の敷地になっている。この敷地の北東に空堀と土塁に囲まれた高月の居館がある。規模は東西120m、南北110mの楕円形に近い形で面積が広い。土塁は東側北寄りを入り口として、この居館を取り囲んでおり、その延長は約217mで、東側と南側は高さ5.4mあり、上幅は7mである。西側は高さ4.7mから2.4m程度になり、上幅も10mから4mと狭くなる。北側は高さ1.5m、上幅1mとなり、その谷側が急崖になる。
 空堀は土塁の南側に90m、西側90mある。土塁を積み上げるための土砂を掘り取った跡である。空堀の深さ(土塁の上端から)は約8mで上端は約15m、下幅5.3m~2mである。
 磐城高校の敷地を含めて高月館の縄張りで、東側の胡摩沢の谷と、南側の風呂ノ沢の自然地形を巧みに利用した中世の城館跡である。
 鎌倉幕府の御家人で好島西庄の預所職であった伊賀氏が、鎌倉幕府滅亡後土着して、南北朝の動乱期には武将として活躍した拠点と考えられる。応永年間(十四世紀末)には、伊賀を飯野に改め、代々飯野八幡宮の宮司職として、ここを居館としてきた。
いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」 より抜粋